観音寺城|後藤但馬守いざ登城

後藤賢豊の登城ルートを辿る

佐々木六角の有力家臣であつた後藤氏は、観音寺城内の後藤邸、佐生城、雪野山城、そしての後藤館の 4つの城を構えていました。そこでそのうちの、中羽田にある後藤館から観音寺城までの当時の登城ルートを推定し、その道を辿ってみました。

まず Google map から引用した地図に それぞれの城跡・屋敷跡の位置を書き込んでみると、この4つの城が南北に一直線に並んでいる事が分かります。また中羽田町の近くには観音寺街道と呼ばれる道路が南北に通っており、現在でもこの道を通って中羽田の後藤館から観音寺城の後藤鄭に、直線的なルートで向かう事ができます。

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出典:この図は Google 社提供の地図上に独自情報を書き加えたものです。

なお観音寺城と佐々木六角氏については、観音寺城|近江源氏 佐々木六角埋蔵文化財活用ブックレット11 – 観音寺城跡 等に解説がありますので併せてご覧ください。

後藤館とは

後藤館は中羽田町にある後藤氏の居城です。立派な土塁、堀ア跡、虎口の石垣などが残っており、滋賀県指定史跡に指定されています。

以下は後藤館に立てられている案内板の転載です。

後藤館跡※滋賀県指定史跡
(昭和五十八年三月三十八日指定)

当史跡は近江守護佐々木六角氏の重臣後藤氏在地居館跡である。 後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、代々六角氏の家老の佐置にあった。十六せ紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるたが永禄六年春(西暦1563年) 義賢の子義弼に謀殺された。これが観音寺騒動の発端となり六角氏は家臣団の信望を失い、ゃがて織田信長に滅ぼされる。この後藤館跡は周囲に基底幅約十一メートル高さ約ニメートルの土塁を築き、その外に掘を穿った単郭構造の館跡て、東西の幅、東辺の長さ約百メートル、西辺の長さ約百ニ十メートルの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した。当時の在地領主の館は非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。 当館跡の建物記置は定かではないが昭和五十六年の発掘調査で井戸跡、厠(便所)跡、柵跡などが検出され、その位置からも主要な建物は敷地内北部中央附近に存したと推定される。平野部に残る中世の館跡として貴重であるため、所有者後藤正男氏および関係機関の接カにより保存が実現した。 なお昭和五十八、五十九年度に一都を環境整備しここに永く後藤館跡の保護をはかるものてある。
昭和五十九年十月

後藤賢豊いざ登城

では、後藤賢豊に成り代わり中羽田町の後藤館から観音寺城に登城します。馬の代わりに自転車を使いました。写真は道筋に沿って順に並べてあります。 また写真は 2008年に撮影したものであり、現状と一致しないところも含まれています。

日吉神社あたりまで来ると民家が途切れ、このあたりで観音寺城の城域に入った事になります。そこで登城記はここで終了し、城域内山裾から本丸付近への道筋の紹介に移ります。

日吉神社鳥居前の道をさらに直進すると赤坂道と呼ばれる道に入り、観音正寺を経て観音寺城の中心部に入ることができます。この道は石段造りの立派な道であることに加え、途中には見付け(閼迦坂見付)もあります。しかしこの道はあくまで観音正寺の参道であるとされ、大手道と呼ばれる道と追手道と呼ばれる道が別に存在します。これらの道筋は以下の図に示されています。

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* この地図は「埋蔵文化財活用ブックレット11 – 観音寺城跡」からの転載です。

大手道は観音正寺参道から分岐しています。参道を日吉神社から少し登ると右上に延びる石段が見えます。その場所は左下の写真のところであり、ここで道は二手に分岐しています。ここには右下の写真のような案内板があり、右手の石段を上がると観音正寺に向かい、直進方向に観音寺城旧本道がある事が示されています。ちなみに直進方向の前方を見ると道は左下に下っています。ここを道なりに進むと観音寺城内の後藤邸に直行できる大手道(本谷筋)に入りますが、この道は整備されておらず通行する事はできません。また追手道とされる道は、日吉神社の鳥居前を左折してすぐのところにある御屋形跡から尾根筋を登っています。

さらに、登城道への本来の入り口は右下の写真のところだといわれています。その場所は、日吉神社に至る道の途中にある左下の写真の石垣の角を左折し、150メートルほど行ったところにあります。

後藤賢豊は城内の後藤氏の屋敷に直行できる、大手道(本谷筋)を使って登城したはずです。しかし現在この道ははブッシュと竹で塞がっており、探検家でないと通れません。また観音正寺直下にある後藤氏の屋敷跡も竹藪に覆われており立入れません。

山裾から本丸付近まで登るお奨めのルート

観音正寺の参道には隣接した位置に駐車場が設けられており、観音寺城の散策にも便利です。しかしせっかくの城跡巡りですので本来の登城道を歩きたいものです。そこで皆さんがお出かけの際には追手道の利用をお奨めします。追手道はだれもが安全に登れるように整備されておりその 追手道の様子をこちらのページで紹介 していますのでぜひ参考にしてください。

雪野山城について

雪野山城についてはご存知無い方も多いと思います。私は、びわこ一周のろし駅伝で瓶割山城の次の城としてエントリーされていたことで、初めてその存在を知りました。何とこの城は雪野山古墳の真上に築かれていました。また後藤館は城郭の要件を満たしているにもかかわらず、後藤城とは呼ばれていません。さらに後藤館が平城であったことから、後藤館の他に後藤城と呼ぶにふさわしい詰城が、雪野山にあったとしても不思議ではありません。

以下、雪野山城の概要です。

雪野山の頂上には、雪野山古墳の墳丘を利用して雪野山城が築かれていました。
(東近江遺跡シリーズ3 ” 後藤館跡 ” 東近江埋蔵文化財センター)

所在地:東近江市上羽田町
現 状:雪野山古墳・ハイキングコース
区 分:平山城
築城期:南北朝期
築城者:後藤氏
城 主:後藤賢豊
標 高:308m 比高差:200m
遺 構:石垣・竪堀・畝状竪堀・曲郭基壇
近江の城郭探訪 からの転載

実際に現地に行ってみると、古墳中心部の周りには石が転がっていたり、石が意味ありげに並んでいたりします。また南西斜面にはしっかり石垣が残っています。

なお、ここには雪野山古墳を解説した案内板が立てられており、この場所に後藤氏の詰め城があったと記されています。

 

蛇足ですが、後藤氏と下羽田とのかかわりについて少々考えてみました

後藤館は中羽田町にあり、その 500メートル北西に私の住む下羽田町があります。尤も後藤館は中羽田の東の端にありますので、我が家と後藤館まは 1 キロメートルくらい離れています。いずれにせよ、後藤館は下羽田の目と鼻の先にあり、私の脳内には下羽田と後藤氏との関係を伺わせるような事実や言い伝えの記憶が残っています。

その1:
後藤掘から川が流れていた。
半世紀くらい前、我が家の前に 2本の川がながれていました。そしてその片方の川は後藤掘からきていました。尤も水は掘からでは無く、後藤館の一角にあった池(現在では公園になっている)から来ていたようです。祖父は良く中羽田まで水をもらいに行っていたそうです。(後藤掘=大字”後藤掘”という地名)私の子供の頃には “ゴトボリ”と呼ばれていたように記憶しています。

その2:
後藤掘から来た水を”馬場”で農業用水として使っていた。
半世紀くらい前まで、我が家では後藤掘から来た川の水を家の前の農業用水として使っていました。私の子供の頃はバーチカルポンプを使っていましたが、それ以前はつるべでくみ上げられていました。そしてこの水を利用していた我が家の前あたりの耕作地は、”馬場” と 呼ばれていました。
この馬場の田は他とは地質が異なっており小石が沢山ありました。田植え前の耕しの際、トラクタのロータを下げるとすぐに小石の多い硬い層にぶつかって弾き返れました。この事から以前この場所は耕作地ではなく、その名のとおり馬の調教施設のようなものがあったのではないかと勝手に想像しています。

その3:
後藤掘から流れ来る川に沿って”城野”の苗字の家が軒を連ねていた。
昭和の始めあたりまで、下羽田ではこの川に沿って 5軒の “城野家” が軒を連ねており、この川沿いには “城野” 以外の苗字の家は 1軒しかありませんでした。また昭和の始めあたりまでこの川沿い以外には “城野” の苗字を持つ家はありませんでした。

その4:
馬場から雪野山(西北部)に向かうと”城谷”がある。
馬場・城野家の付近から雪野山(西北部)に向かうとその山裾正面に 2本の谷があります。この左側の谷は “城谷” と呼ばれており、谷を登り切った尾根筋あたりには削平された形跡が残っています。

このように、下羽田は後藤掘から流れ来る川の下流にあり、地名や苗字などにも、”城”や”馬”など戦国時代の施設との関連を疑わせるような名が残っています。後藤氏の水利権の及ぶ下流の下羽田に、後藤氏の施設があったとしてもおかしくありませんので、何か後藤氏に由来する遺構が残っていないか?と、少々気になるところではあります。

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出典:この図は Google 社提供の地図上に独自情報を書き加えたものです。

後藤堀から流れてくる川の途中に、お琴の池と呼ばれる人工の貯水池がありました。50-60年前にこの池に揚水ポンププが設置され、その後はここで汲み上げるげられた地下水が使われるようになり、後藤堀の水は不要になりました。そして現在ではそのお琴の池も埋め戻されて無くなっています。

併せて 近江後藤氏の系譜後藤館跡佐生日吉城 をご覧ください。

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