峠を越えて山向こうを訪れる

安妃山の下羽田側からは、腰越の峠 道を越えて近江八幡市の倉橋部町に出る事ができます。また散策道からは女坂や間道を通って近江八幡市側に下りる事ができます。

そこで、これらの道を利用して気軽に楽しめる、近江八幡市側の見所をいくつか紹介したいと思います。

 

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手が空き次第、浄土寺天神社あたりから紹介したいと思いますが、まず、天神社本殿への入口付近に設置されている竹林寺城の案内板をご紹介します。

竹林寺城

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竹林寺城跡説明文

藤原鎌足から十九世に当たる時朝が近江に嶺地を得て薬師寺を名乗り、ニ十ニ世政盛が林は村田館に住み、この所安吉山頂、今は竜王山とも雪野山とも云うに竹林寺城を築く。(1,300年頃)貞光、政統、政齋、秀政、貞政、貞治、貞兼と八代が城主としてこの城を護った。 一四九ニ年、足利義植が佐々木高頼を征っため近江に攻め入る。 このとき佐々木の寄り所であった竹林寺城は落ちたものと思われる。明治四十一年から三ケ年事業でこの南通称大谷山は、県営砂防エ事が施エされ、城郭の石積や附近の古墳は掘り出されて使用されたため、 今は城跡らしい砦すらない。
* 平成4年10月ふるさとづくり事業として建立

浄土寺天神社

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天神社史錄
祭神: 国底立命
創祀: 六十一代朱雀天皇御代(940年頃)
由緒: 浄土寺・庄・林村(三ッの村)の産土神
安和三年三月二十八日(969)大和国子守大明神
この地より綾之地に移り給うとあり
元亀三年(1572)安吉郷より分荘苗村郷となる
明治維新前·庄村は分離八幡神社に合祀
明治初年・林村は東社殿を建て分祀
昭和三十一年林村は社殿を移柱
神縁に困って苗村神社春の例祭節句察には古式による渡行を三ッの村が順番に出し、三十三年式年大祭は伝統の田刈踊りなど一ッになって盛大な渡行を行っている
史錄:
文政九年(1816)二月神興調達
本殿改築,江戸末期と推定
素屋·抨所建築年月不詳
明治三十五年二月(1902)千年祭
大正八年四月(1919)拝殿新築
平成三年十二月素屋拝所改菜

平成四年三月建立

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流鏑馬の里

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流鏑馬の里の由来

いにしえ、この地は蒲生野と呼ばれ、草木は背が低く、小高い丘もあり平地も畝のように高低があったことから畝野とも言われ、遊猟に適した土地であった。この地は浦生野の中でも天皇の遊猟場であって、天智天皇の御代の五月五日には天皇はじめ皇族、下臣に至るまで行幸 があり、盛大な遊猟が行われた土地として歴史上も名高い。この遊猟のようすが今日五月五日の端午の祭の流鏡馬として伝承されている。 平安時代にはこの地はニ十余ヶ村からなる安吉郷と称され、近江の名所の一つとして隆盛をきわめた。当時五月五日には大祭が行われ、流鏑馬は祭の中心的行事であっただろう。その後中世や近世には近隣の八村から農耕馬が八頭集まり、流鏑馬が行われた。八村からはそれぞれ的を持ち寄り、馬場のニヶ所に的を立てて、公人の射手が遊猟の行われた当時の身支度をして馬上から的を次々と射落としながら駆け抜けるという、実に勇壮な祭であった。今日も五月五日の端午の祭には近隣からも多くの人々が参加し、往時を偲ぶことができる。このように千ニ百年もの歴史のある流鏑馬は今日、当町民にとっても最も重要な年中行事として盛大に行われている。この優れた歴史的文化遺産を子々孫々に伝承していくことが何ょりも大初であると考え、この像を建立した。

いにしえの
天智の御代の遊猟しのぶ
端午の祭 流鏑馬の里

平成十一年十一月吉日

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