瓶割山まで足を延ばそう!

魅力いっぱいの瓶割山

下羽田の里山、安妃山は雪野山の北西部に位置し、そのすぐ北には瓶割山(長光寺山)があります。その瓶割山南端部に連なる岩倉山の山裾までは、杓子山の麓から歩いて10分あまりの距離です。戦国時代、この瓶割山には瓶割山城という山城がありました。そして柴田勝家がこの城に入り、佐々木六角勢との闘いの最中、水瓶を割って兵の士気を高めたという言い伝えがあります。

実際に瓶割山に入り歩いてみると、さすが山城があっただけあり、男性的でワイルドな印象を受けます。家族連れでも気軽に楽し める、よく整備された下羽田の里山だけでは物足り ない場合には、この瓶割山(長光寺山)まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか?


出典:この図は Google 社提供の地図上に独自情報を書き加えたものです。

この瓶割山の魅力は、何といってもその山中にある瓶割山城跡です。そこでこのページを通じて瓶割山城跡の散策を楽しむ為のさまざまな情報をお届けしたいと思います。

瓶割山城跡

瓶割山城とその名前の由来

瓶割山城は佐々木六角氏の拠点である観音寺城から、中山道を南西に3km ほど下った位置にあります。この立地から観音寺城の支城と捉えられ、そのように紹介される事も多いのですが、実際には観音寺城の当主六角高頼と戦うためにその兄の六角政堯が築いた城でした。要するに、元々は観音寺城を守るのではなく観音寺城を攻撃するための城でした。

そして応仁の乱が始った頃に六角政堯は京極氏と組み、一度は観音寺城を陥落させました。そして三度目の戦いで高頼が観音寺城を奪還した後、瓶割山城は観音寺城の支城として使われたようです。さらにその後の戦国時代、織田信長上洛後には柴田勝家が入り、南近江平定(元亀争乱近江平定戦)のための拠点の一つとして使われました。

「絵本太閤記」の瓶り柴割田
Wikipedia 野洲河原の戦い より

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戦国時代、織田信長が近江に侵攻し上洛を果たした後も、南近江には六角の当主とその勢力がまだ残っていました。この残存勢力と戦う為、柴田勝家が長光寺城に入りこの城を拠点に義賢(承禎)・義治父子が率いる軍勢と戦いました。

そしてこの長光寺城での戦いは、元亀元年(1570年)6月に起こりました。六角勢に取り囲まれ、水源を止められた柴田勝家は、残った水が入った瓶を前に置き、この水が尽きて渇き死ぬよりも、力のあるうちに打って出ようと諭し水瓶をわりました。この事により勝家勢は奮い立ち、背水の陣で六角勢に挑んで軍勢を撥ね退けました。

この事により柴田勝家は瓶割柴田と呼ばれるようになり、長光寺城も瓶割山城と呼ばれるようになったといわれています。この逸話は『武家事紀』巻第十三『常山紀談』巻之三 「柴田勝家水缸を破りて城を守りし事」 等によって後世に伝えられました。しかしネット上には、この話は史実ではないとの見解が多く見られます。

根小屋 – 山麓の不二滝一角にある瓶割山城の遺構

根小屋があったとされる不二滝一角
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足利義晴像(古画類聚)
Wikipedia 足利義晴 より
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長福寺の不二滝のところから山頂にある瓶割山城跡に通じる道が延びていますが、この不二滝付近には根小屋があったとされています。この不二滝のある一角は立派な土塁で囲まれておりさながら城跡の様相を呈しています。このエリアの広さは約12,000㎡ありその周囲の土塁は3.5mの高さがあり、粘土と砂を交互に積んで造られている事が断面調査によって判明しています。

実はここは根小屋があっただけでなく、将軍義晴が仮御所を置いた場所である可能性もあるそうです。以下は三尾次郎氏による、この根小屋などについての解説です。


*六角高頼の時に、室町幕府と対立し、定頼の時に十二 代将軍義晴を擁立・保護している。将軍義晴は、その大 半を近江で過ごしたと言われているが、『宗長日記』に よると、「長光寺かりの御所しつらはれ御うつり。築地 以下普請。しばらく御座のやうにきこゆ。」とあり、築 地の記述が見えることからも将軍義晴が御座した仮の御所が、この西側山麓の根小屋であった可能性があり、ま た、「信長公記」卷三元龜元年(一五七○)五月十二 日の条には、「長光寺に柴田修理亮在城」と記述されて いて、承績と戦う信長方の城として柴田勝家が配され改修しているようである。*


瓶割山城は観音寺城からすぐに駆けつけられる距離にあります。また山頂部の城郭を山麓の居館に対する詰め城として利用できますので、ここに仮御所のような重要な施設があったとしても不思議ではありません。また足利義晴は六角氏の庇護のもと、実寺(桑實寺)に 3年間仮幕府を置いたとされていますが、将軍が滞在できる施設がこちらにもあったという事なのでしょうか?

瓶割山城跡の案内板より
一の郭に設置されている瓶割城跡案内板から、縄張図と解説文を転載

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東近江市と近江八幡市にまたがる瓶割山の山頂に位置します。主な遺構は、山頂に作られた三ヶ所の郭で、それぞれの間は堀切で区画されています。各郭の周囲には小規模な郭が設けられ、さらに竪堀が掘られています。自然の近いを巧みに利用し、部分的に石垣が作られています。場内で最も規模の大きな石垣は、一の郭の北西にある高さは 6m のものです。

瓶割山城は古くは長光寺城とよばれ、応仁の乱も最中応仁二(1468)年に近江守護佐々木六角高頼と対立した佐々木四郎政尭により築城されたとされ、詳細は不明ですが、天正四(1576)年の安土城築城の頃には廃城になったと考えられます。

当城の北北東約 5kmにには佐々木六角の本城である観音寺城があり、政尭の時には守護高頼の観音寺城に対する城として、また、織田信長が観音寺城を攻略した後には、その周辺地域の抑えの役割をはたしたと考えられます。

瓶割山の山名は、元亀元(1570)年に、柴田勝家は近江守護佐々木六角承禎(義賢)と戦った際に場内の水瓶を打ち割って城兵を奮い立たせ、戦いに勝利した事から「瓶割柴田」の異名をとったという伝承に由来します。

 

大正時代の城跡縄張図と瓶割山周辺
近江蒲生郡志巻十から図を転載

近江蒲生郡志では中世の歴史に多くのページが割かれており、瓶割山城についても興味深い解説が行われています。その中から、長光寺城平面図という名の大正ロマン溢れる図を紹介します。

この瓶割山城(長光寺城)の図は、大正 4年の測量によって作成されたものです。

上の図は瓶割山城の縄張図ですが、現地の案内板に描かれている最近の縄張図とはだいぶ異っています。例えば、最近の縄張図では三の郭(三の丸)は一の郭(本丸)の北にありますが、この古い図では本丸の東側に三の郭が示されています。そして最近の縄張図で三の郭となっている場所は、古地図では米蔵になっています。

ちなみに現地に古くから立てられている木製の方向案内板の矢印は、この古い図にある三の丸の方向を指しています。

またこの地図では、最近の案内板には描かれていない 井戸と多くの石垣が見られます。実際に出向いてみると一の郭の南下あたりでこれらの石垣の一部が斜面から頭をのぞかせています。おそらく堆積している腐葉土を浚えばこれらの石垣と井戸が出てくるのではないでしょうか?

そして、縄張図に描かれている道のルートも最近のものとは異なります。さらに下の図を見ると、瓶割山の山裾や中山道と沿いの様子がわかりますが、今と比べて建物の数が少ない事に驚かされます。

瓶割山城はあまり調査が進んでいないように見えます。詳しく見て周れば未知の遺構と遭遇できるかも知れません。

 

瓶割山城遺跡の様子

瓶割山城の城跡エリアは、公的事業とボランティアの手によって雑木の伐採や案内板の設置が行われており、各郭や他の遺構を容易に確認する事ができます。また登り道の要所には階段が設置されています。

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瓶割山散策路

瓶割山城跡は瓶割山の山頂にあり、二の郭の角に三角点があります。山裾から城跡エリアに通じる道は複数あります。以下にそのルートを紹介します。

不二滝ルート

登り口としてはおそらくここが一番よく利用されていると思います。土塁に囲まれた空間と石垣。トンネルは愛嬌にしても、瓶割山城跡への登り口として否応なしに引きつけれれてしまいます。現在ここには信仰に対象になっている施設がありますが、昔ここには兵士を待機させる根小屋があったそうです。この場所は山頂までの距離も近く瓶割山城域の一角であったことが容易に想像できます。

登り口は、隣接する日吉神社の一番奥の建物の近くにあり、擬木で階段が付けられています。日吉神社の参道からも行けます。山頂までの道筋は良く整備されており、要所に階段が付けてあります。

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大岩ルート

このルートも不二滝ルート同様に良く整備されており、良く利用されてています。巨大な岩がありその脇に道が付けられています。階段はほとんどありませんが、安全に登り下りできるように勾配の急なところにはロープが張られています。

城跡遺構が連なる尾根筋までの距離は不二滝ルートと同じくらいですが、中心部から少し離れたとろに登り道が合流します。このため中心部に向う道すがら、尾根筋に連続する遺構をを系統的に楽しむ事ができます。

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御沢ルート

瓶割山は城跡中心部から東西に尾根が延びています。西側より東側の方が長く山裾の出入り口近くまでなだらかな一本道が続いています。

この尾根筋は頻繁には管理されてはいないようですが、ブッシュに阻まれるような事もなく普通に歩けます。また道筋にはところどころに郭に利用されていたかのような削平地や地蔵などの遺構が見られ、瓶割山城域の一部であった事が伺えます。

この尾根筋では、道筋両脇の伐採は行われていませんので展望はイマイチですが、地形自体はわりと切り立った形をしており、ところどころで近江八幡側を展望できます。

出入り口付近では少し急な坂道になりますが、この山裾付近は観音霊場として整整備されており、その参道(巡礼道)に合流しまので楽に登り下りできます。また山裾出入り口のすぐ近くに御沢神社があり、駐車もできますのでこちらも併せてお楽しみください。

山歩きにの醍醐味は尾根道の縦走であり、このルート瓶割山縦走コースとしてお奨めできます。

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岩倉山峠道ルート

瓶割山は城跡中心部から東西に尾根が延びています。東側にに向かうと御沢神社のあたりに出ますが西側に進むと岩倉山との間の峠道に下ります。

この峠道は現在、山中にある貯水場への取り付け道路になっています。観光バスでも通れそうな立派な道なのですが、山裾の入り口にはゲートがあり立ち入り禁止になっています。山中にはこの道に下りる為の階段などが設けられており、山中でこの道に降り立つ事は許容範囲だと思いますが、山の外からこの道に立ち入る事は許されていません。

この尾根道に入るには瓶割山城の二の郭付近を道なりに南下せず、二の郭の手前で西向きに折れます。すぐに急な下りが始まりますが、安全に下りられるようにロープが張られています。そのあと傾斜は序所にゆるくなりますが、十分に管理されておらずところどころに繁みの深いところがあります。

道筋は繁みで分りにくくなっているところもありますが一本道ですので、尾根を外れないように下りれば道に迷うような事は無いと思います。

なおこのルートでは山中から外に出るために、立ち入禁止のゲートを通過す必要があります。ゲートは長福寺(近江八幡市)側と上平木側(東近江市)にあり双方とも歩行者の立ち入りを厳格に遮断するような構造にはなってはいませんが、城跡散策のための立ち入りが容認されているるのかどうかは不明です。

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電波塔ルート

瓶割山城の遺構が集中している城跡中心部から東尾根に入り、東に向かうと御沢ルート入口に辿り着きますが、ちょうどその道筋の中間あたりに、電波塔があります。その電波塔には保守点検の為の通行路が設けられており、ここを通って山裾に下りることができます。

この道には金属製の強固な階段が設けられており、最短かつ安全に降りられます。このルートはすぐに貯水槽管理の為の舗装道路に合流してしまい、散策には向きませんが、瓶割城跡の主要部の散策をたっぷり楽しんだ後、東近江側に早く安全に下りたいというような場合には便利です。

ただし、取付道路の出入口には立ち入り禁止のゲートがありまっすぐに外に出る事はできません。しかし以前、県教委主催の瓶割山城探訪のイベントでこのルートが利用された事があり、公共性ん高いイベントでは何らかの手続きによって、このゲートの通行許可が得られるのかも知れません。

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 その他のルート

どの地図にも載っていませんが、日吉神社(上平木側)の裏手から取付道路の終点にある貯水槽まで、尾根道らしきものが延びています。貯水槽の向こう側も尾根が続いていますので、貯水槽ができる前はこの尾根道が分断されず稜線まで続いていたものと思われます。

ここを登って取付道路に入り、電波塔経由で尾根筋に出る事もできます。瓶割山城には、水瓶を割って戦意を高めたという謂われがあります。そしてその城山に再び水瓶(貯水槽)が置かれ、その水瓶を経由して城跡に登るというのも面白い話ではあります。しかしこの道筋はブッシュや倒木で歩きにくい為、よほどの探検好きの方以外にはお奨めできません。

さらに、瓶割山と周辺の山 というページで、瓶割山 ⇒ 安妃山(雪野山北西部) の散策ルートが紹介されています。これによると瓶割山には 北の尾根から登れるルートもあるようです。

以下の地図にはこの北尾根ルートを含め、5本の登山ルートが示されています。


dsc_1208 上平木町鳴谷に設置された案内板から転載

なおこの 瓶割山と周辺の山 の作者さんは瓶割山を下山した後 安妃山(雪野山北西部) へは “やぶさめの里入口” から登られたようですが、このルートは少し遠回りになるりますので、瓶割山の真向いの  “杓子山登り口”  から安妃山に入られる事をお奨めします。

岩倉山峠道 – 谷筋ルート

このルートは、立ち入りが禁止されている貯水槽への取付道路から分岐しており、常識的には無許可で通行する事はできません。このため今までこのルートの紹介を控えてきました。

しかし立入が禁止されているこのゲートの入口には、東近江市教育委員会によって案内板が設置されており、ここから登るルートが紹介されています。またこの案内板の脇は切り開かれて通行できるようになっています。さらにここを通って取付道路に入るとすぐに山頂への分岐があり、ここにも登山ルートを示す案内板が設置ざれています。

このように立入の可否が判明しない状況ではありますが、今回はあえて東近江市の案内板に従って登りその道筋の様子をご紹介する事にしました。

このルートには案内板の脇の切り開きから入り、竹藪を 20mくらい進んだところで舗装道路に入ります。この舗装道路を 150m ほど進むと大きな谷に出会い、この谷にかけられた橋を越えたところの擁壁に階段が設けられています。この階段を上ると、谷に沿ったしっかりした道が現れます。この道を 200m ほど登ると谷は正面と左手方向に分岐します。ここを左に折れ谷を登ると、ほぼ直線的に城跡エリアの西の端あたりに到達します。ここのすぐ東に二の郭があります。そしてその先には、土橋、石垣などの見所あり、二の郭から 100m ほどで一の郭に着きます。

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この一の郭の北西側と東側にも城跡遺構が数多くあります。

城跡の散策を楽しんだ後は近江八幡側に下山するのが無難ですが、東尾根を縦走して東近江(上平木町)側に下りる事もできます。この道は傾斜が緩く起伏も緩やかですが、あまり管理されておらず、倒木やブッシュを避けなくてはならないところもあります。

またこの尾根道の途中か南枝尾根が突き出しています。この尾根は上平木の日吉神社まで続いていますが途中に貯水槽が置かれていますのでここを通って下山する事はできません。そこでこの南枝尾根を貯水槽の手前まで下ってみたところ、たいそう見晴らしが良く貯水槽越しに雪野山を望む絶景が広がっていました。

さらに、近江八幡市から入手した資料によると、このあたりは 瓶割山古墳群 のある場所のようです。このあたりは散策から外せない場所の一つですが、たいていの人は気付かずに通り過ぎるのではないかと思います。

南枝尾根は貯水タンクの手前まで穏やかに延びているが、倒木で通り難い箇所もある
南枝尾根は貯水タンクの手前まで穏やかに延びているが、倒木で通り難い箇所もある

巨大なタンクが埋め込まれているように見える
巨大なタンクが埋め込まれているように見える

この岩倉山峠道-谷筋ルートを利用する事によって、下の地図のように瓶割山の東近江側を東西に結ぶ散策ルートが完成します。さらに岩倉山峠道-谷筋ルートの入り口は雪野山の西北端に近く、瓶割山と雪野山の両方を楽しむ場合には大変便利です。

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今後この魅力的な瓶割山の散策ルートが整備され、雪野山⇒安妃山⇒瓶割山のルートを、誰もが気軽に利用できるようになることを願っています。

瓶割山城跡の調査報告書より

1987年 3月に発行された埋蔵文化財調査報告書 から、縄張図と写真を転載。

縄張図には昭和末期に実施された調査の結果が朱書きされています。またこの縄張図の下図として使用されている地形図はそれよりもかなり古い時期のものであり、現在では削り取られて消滅している北東部の尾根が残っています。

またこの地形図は、近年に施設された貯水槽やその取付道路によって地形が変化する前のものですので、古い時代の瓶割山の形を正しく知る事ができます。

そしてこの報告書では、このページで紹介した不二滝ルートまたは大岩ルートが、大手道に相当する幹線であったと推定しています。

瓶割山の冬と夏

瓶割山城跡の主要部は近江八幡市側の方々の手によって、定期的に下草や笹の刈り取りが行われています。このため、冬場は歩きやすく地形なども良く分かる状態が保たれていますが夏になるとどうしても草木が生い茂り、ごそわら(ブッシュ)化してしまいます。

以下は夏場と冬場の比較写真です。上のほうの写真は 2017年1月 5日に撮影したもので、下は 2017年7月27日の撮影です。一の郭付近はほぼ全面が笹で覆われ、足元に何が潜んでいるかわかりません。また土橋付近の石垣は草に覆われており、よほど注意しない限り石垣に気付かず通り過ぎてしまいます。半年あまりでこんなに変わってしまいます。

一の郭全貌

一の郭案内板付近

土橋脇の石垣付近

 

山頂にある遺構は、一年を通して良い状態に保つのは難しく、瓶割山の夏場の散策は避けた方が無難です。

城跡の東近江側ルートに生い茂っていた草木を刈り取りました

東近江市側は維持管理が不十分なため夏場には立ち入れないところもあります。このため、2017年の 7月から 9月にかけて、城跡の東近江市側に生い茂った草木を刈り取りました。

図中の青い線で囲んだ箇所の草木を刈り取りました。その結果矢印のルートでの散策が可能になりました。

この整備の結果をまとめた PDF ドキュメント も併せてご覧ください。

長福寺(近江八幡市)側を「大手」とするならば、東近江市側は「搦め手」という事になります。瓶割山城跡にはこの搦め手側にも多くの遺構が残っています。

瓶割山の惨状

以下の瓶割山の写真は昭和50年に国土地理院によって撮影されたものです。瓶割山は昭和 30年代の後半くらいから 40年代にかけて行われた採土によって、大きく姿を変えています。この採土は山の北東部で行われこの写真の右上あたりを見るとその採土によって山が大きくえぐり取られている様子が分かります。

この瓶割山の土は、新幹線の線路の盛り土に利用されたそうです。この採土によって、東北尾根の遺構は姿を消し、(大正期に比定された)三の一部も削り取られています。

 

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