安土城|城跡案内板

安土城跡に設置されている案内板を一挙掲載!

下羽田の里山から安土山が見え、安土城跡はこのサイトでは外せないアイテムの一つです。しかし安土城跡の紹介はすでに多くのサイトで行われていますので、有意なものにするためには内容を一ひねりする必要があります。そこで思いついたのが、安土城跡に設置された案内板の紹介に特化したページです。

このページのコンセプトは、安土城跡案内板の完全コピーです。城跡構造などのついての独自のコメントはありません。しかしここには、現地の案内板に書かれている質の高い解説があります。そしてここには安土城跡の大手道沿いに設置されている、全ての案内板があります。

要するにここは「安土城跡の紹介」ではなく「安土城跡の案内板を紹介」するページです。安土城跡散策の予習/復習に便利です。

また案内板には安土城跡全体の縄張図があり、見学コースの外にも多くの家臣の屋敷跡が示されています。これらの家臣は戦国ドラマ等での露出度が少なく目立たない存在ですが、舞台裏で活躍した武将も多く、捨てがたい魅力があります。

これらの武将については WEB 検索で情報が見つかりますので、ぜひ当たってみてください。

中條将監(中条将監・中条家忠)
武藤助左衛門(武藤舜秀)
福富平左衛門(福富秀勝)
市橋下総守(市橋長利?)
長谷川竹秀一(長谷川秀一)
菅屋九右衛門(菅屋長頼)八角平
江藤加賀右衛門(青木加賀右衛門・青木重直?)

織田信忠
織田信雄
織田信澄(津田信澄)
森乱(欄)丸(森成利)
堀久太郎(堀秀政)
方見仙千代(万見重元)
武井タ魔

 

安土城

現在の安土城跡の見学コースは、大手道から天主に登り、帰りは中腹あたりで百々橋道方向に折れ、西側を周回するルートになっています。一方で案内板の縄張図にはこの他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。また近江蒲生郡志に綴じ込まれている 大正時代に作られた縄張図 も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介していますのでぜひご覧下さい。

 

特別史跡安土城跡

安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576) に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で 信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピール します。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた擦見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくこ とになります。

安土城跡は大正15年(1926)に史躍に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。

昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年? 50年(1960?1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安 土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。

天主


安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一○年(一五八二) 六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦磯と草木の下に埋もれてしまいまし た。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四○)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。

安土城跡は、国の特別史跡に指定されています。指定地内では、許可無く史跡の現状を変更するこ とは禁じられています。違反した者は、法により厳しく罰せられます。ご来訪いただきました皆様方には、何かとご不便をおかけすることもあろうかと思いますが、貴重な文化遺産である特別史跡の持つ意義をご理解いただき、皆様とともにこの安土城跡を守り伝えられますよう、ご協力をお願いいた します。

また、特別史跡安土城跡のある安土山全体は民有地です。所有者の御好意により一般に公開されています。その趣旨を御理解の上、禁煙等火気使用の厳禁、ゴミの持ち帰り等に御協力下さるようお願 いします(原稿作成滋賀県教育委員合事務局文化財保護課城郭調査担当)

安土山御天主の次第

石くらの高さ十二間余なり。石くらの内を土蔵に用ひ、是より七重なり。 二重石くらの上、広さ北南へ甘間、西東へ十七間、高さ十六間ま中有り。 柱数式百四本立。本柱長さ八間、ふとさ二尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。 御座敷の内、悉く布を着せ黒漆なり。 (中略)
三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり。 、花鳥の間と申すなり。(中略)柱数百四十六本立なり
四重め、西百十二間に岩に色々木を遊ばされ、則、岩の間と申すなり。(中略) 柱数九十三本立。
五重め、御絵はなし、(中略)こ屋の段と申すなり。
六重め、八角四方あり、外柱は朱なり、内柱は皆金なり(中略)
上七重め、三間四方、御座敷の内皆金なり、そとがは是又金なり。(下略)
「信長公記」 (奥野高広・岩沢鷹彦校注の角川文庫版による)

本丸跡


天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられ てきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸 帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16 年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約218m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸 (約36cm)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸 (12〜18cm)の柱を6尺5寸 *(約197m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性 、がうかがえます。 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、 天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀 吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図 です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしよう。 。なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。 「信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御 間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記していま す。信長の二度にわたる安土城の天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本 丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。

黑金門跡


ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしよう。平成 5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箱瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの 一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・楕門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。 平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。

伝羽柴秀吉邱跡


ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるもので すが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる 部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が 1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅 2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。 上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると武台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は 366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。

櫓門跡の発掘調査

伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成 2年と4年に実施しました。調査前は草木の生い茂った湿潤な斜面地でしたが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、階段を発見しました。これらは 厚さ数cmの表土の下から見つかりましたが、その保存状態は大変良好で今後の安土城跡の調査に大きな期待 を抱かせることとなりました。 礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のもので は0.8m×1.4mの大きさがあります。 これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の檜門であることがわかりました。

楕門の内側には、屋敷に通じる石 段とこれに伴う石組みの排水路があ り、水路の縁石には石仏が使用され ていました。門の前では大手道から 楕門へ入るための橋を支えたと考え られる3本の長い花岡岩製の転用石を発見しました。
また、周辺からは楕門の屋根を飾っていたと考えられる金箱軒平瓦や丸瓦の破片が出土しています。

伝羽柴秀吉邸主殿


安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。この屋敷では、主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっています。主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。 「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受けます。その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれています。式台を左に進むと主殿に出ます。畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっています。西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の間」です。上段の間南には主人が執務を行う「付書院」 が付属しています。南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出しています。広縁の途中にある「車寄」は、もっとも大事な客 – 例えば秀吉邸を訪れた信長 – が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風が架けられています。 主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続しています。皆様も往時の姿を思い浮かべながら、秀吉の来客になったつもりで、整備された礎石の間を歩いてみてはいかがでしようか。

伝前田利家邸跡


ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。 大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固 める重要な位置を占めています。急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の 郭に分かれた複雑な構成となっています。敷地の西南隅には大手道を防備する隅権 が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。 隅槽の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は 分かりません。門を入ったこの場所は析形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞槽が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、 東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いています。この析形から先は道が三方に分かれます。

右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのできる厩が 建っていました。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明」に 載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。
正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。正面階段 は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。前方と有 手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。多聞槽下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠待が一体となった建物です。遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹数となっており調査が及んでいません。さらにその東にある奥座敷は特異な平面 を持っ書院造り建物です。東南部に突出した市門を備えているものの、部屋が一列 しかありません。あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わ せて後半部の部屋を撤去したのかもしれません。 伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その 配置には大きな相違が見られます。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16 世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。

伝前田利家邸跡の虎口


一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言いま す。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に析形の空間を造った「内析形」と呼ば れるものです。発掘調査の結果、人口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手 には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また、一段目と二 段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る槽台への出撃を容易にしています。正面右手の石垣は、その裏にある多聞槽へ通じる石段を隠すために設けられた「部の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が部の石塁との間の通路を狭 くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城 築城時にすでに取り入れていたことがわかります。

大手道跡の石仏


この石仏は築城の際に大手道の石材として使われたものです。城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。 出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をこ理解の上、見学して下さい。
滋賀県教育委員会

仏足石(室町時代中期)


この佛足石は大手道石段などに見られる石佛と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われて居た様で昭和の初期、登山道整備工事の時この付近の崩れた石垣の中から発見されました。佛足跡は、お釈迦様の足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされて居ました。我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝級)の物とした有名ですが、此の佛足石も中性の数少ない遺物として大変貴重なものです。
安土城跡 総見寺住職

雪野山♡しもはねだ里山天国について