秘話探訪 ふるさと報知随想 上羽田の田圃にグラマン不時着 中島伸男 昭和20年7月25日。朝から暑い夏の陽射しが照りつけていた。 前日につづき、米艦載機グラマンF6Fの編隊が湖東地方に襲来した。しかし、この日は陸軍八日市飛行場を飛び立った五式戦二十数機が、上空でグラマンの編隊を待ち受けていた。敵味方、入り乱れての空中戦が展開された。そんな中、五式戦の銃撃を受けたグラマン1機が白煙を吹いた。同機は、蒲生上空から平田の方向へ高度をぐんぐん下げていった。この様子を櫻川駐在所の前で見上げていた巡査が、駆け足でグラマンを追いはじめた。 グラマンは北西方向に降下をつづけ、エンジン停止状態で平田村上羽田西方(現・東近江市上羽田町西方)の水田に胴体着陸した。小字「倉地」というところである。 近くで植田仁三郎さん・イトさん夫婦が、「上げ草」といって最後の田草とりをしていた。その目の前に突然の不時着期。驚いた二人は片脇の白鳥川に飛び込み、這うようにして家に逃げ帰った。 不時着期の操縦席から米兵が姿をあらわした。彼は空に向けピストルの弾丸を発射しつくすと、機外に出てきた。そして人家の見える平石集落の方向へ、白いハンカチを振りながら歩いていった。 このころ桜川の駐在巡査のほかに、八日市憲兵分遣隊の憲兵や平田駐在所の巡査も現場に駆け付けてきた。間もなく米兵は逮捕された。まだ上空にはグラマンが飛び回っていたが、周辺の村々から沢山の人々が現場に集まってきた。鋤(すき)や鍬(くわ)を手にしていた人もいた。米兵はパンツ一つの姿で、目隠しをされていた。平田小学校の先生が通訳をしようとしたが、ほとんど話はつうじなかった。 手にしていた竹で、捕虜の米兵を叩こうとした人がいた。憲兵が「何をするか」とそれをさえぎった。「鬼畜」と教えられてきた米兵に、憎しみをぶっつけたいという気持ち。当時の国民感情としては分からない話ではなかった。むしろ、それを止めた憲兵が冷静だった。 米兵は、八日市憲兵分遣隊(現・八日市大凧会館付近)に連行されていった。 『戦記文庫・液冷戦闘機、飛燕』(渡辺洋三著)に、7月25日の空中戦にかんする記述がある。同日、上羽田に不時着したグラマンの米兵は、ハーバード・L・ロー少尉であったとしている。 空中戦の20日後、終戦を迎えた。ロー少尉が無事に帰国したことは確認されているが、彼のその後の消息については分かっていない。 数年後、不時着現場より南へ約300メートルの白鳥川堤防に、ロケット弾が埋もれているのが見つかった。不時着の直前、自爆を避けるためグラマンが投下したものらしい。後日、警察予備隊により爆破処理された。 戦後65年がたつ。グラマンが不時着した水田もふくめ一帯は耕地整理・河川改修がすすみ、青々と稲が育って平和そのものの農村風景が広がっている。注=グラマン不時着の話は、北岸善一さん・内堀甚一郎さん(東近江市上羽田町)からお聞きしました。『液冷戦闘機、飛燕』の記事は小松照さん(枚方市)に教えて頂きました。 2010.08.01 滋賀報知新聞(日刊)